雨音の後 喫茶店のドアベルがからんと涼やかな音を立てた。 閑散とした空間にその音は響く。 桐谷は音のした方をちらりと伺う。 開かれた扉から現れた人物は、自分が待っていた相手で間違いは無かったが、手を振って合図を送ったりなどはしない。ここはそういう場所だから。 都心から少し離れた場所にある喫茶店「葡萄の樹」は、客の入りが良いほうでは無い。 蓄積された時間の重みを感じさせるような建物の造りと、蔦の絡まる壁、薄くなった看板の文字は客を受け入れる気すらないように見える。 それでも開店してから10年以上経つ今でも一向に潰れる気配が無いのは10年間変わらないコーヒーの味を作り出すマスターの腕と、その味を知る昔からの常連客のおかげだろう。 今、こうして店の奥の席で分厚い小説を片手にコーヒーを啜る桐谷翔も、その常連の一人だった。 もともと桐谷の父親はこの喫茶店のマスターと同級生であったため、桐谷自身もよく、幼い頃からここに来てはマスターからカフェオレをごちそうになったものだった。 がた、と小さく音を立てて、桐谷の向かいの椅子が引かれた。 無言でその人物は椅子に座る。 桐谷は気にしたように小説から顔を上げ、その人物と目を合わせたが、まだその口は開かれない。 いつもそうだった、彼はこちらから切り出さないと滅多に口を開くことがない。 話題を提示するのはいつも桐谷の役目。それは二人の間の暗黙のルール。 今回の事は桐谷から呼び出したことなので、こちら側から切り出すことは当然と言えば当然のことだったが。 「悪かったな、呼び出して」 「……何か連絡でもあったのか?」 桐谷が口火を切ると、便乗するように彼が口を開く。 「いや……」 桐谷がはっきりとしない返答をする。 「そうか…」 桐谷と対峙していた相手、薫は静かにため息を吐いた。 一之瀬薫の姉、一之瀬千夏が亡くなってからもう2ヶ月が経過しようとしていた。雨の音の絶えなかった6月を過ぎ、今は死を目前にしたかのような悲鳴にも似た蝉の声が絶えない。 本当に、忙しない季節だと桐谷は思う。 千夏を殺した犯人と思われる薫の父親とは千夏の所持していた携帯で繋がっている。 その携帯は桐谷が今は持っていた。 「このまま何も来ないんじゃないのか」 桐谷は鞄からシルバーに光る携帯電話を取り出した。 一度、植え込みに放られたに関わらず傷一つないそれは、持ち主の几帳面さを物語っていた。 「何も来ないなんてことは無い」 それまで、歯切れの悪い会話ばかりを繰り返していた薫は、今度ははっきりと告げた。 一瞬の迷いすら入り込めないほどの真摯さで。 桐谷は、薫の父親の事をよく知らない。 千夏には何度か家庭環境について聞くことはあったけれど、聞いてはいけないことだとわかっていたし、桐谷からその話題を持ち出すことはなかった。 だから、今まで、薫と彼の父親に関してほとんど話したことはなかった。 衝撃の事実を知った、あの雨の公園の夜にでさえも。 ただ、何かあるのはわかっている。 それが憎しみであれ、嫌悪であれ、もしかしたら愛情であったとしても、一定以上は桐谷に踏み込む勇気は無かった。 改めて考えてみれば、薫の事についてもよくわかっていないんじゃないだろうか。 事実、こうして呼び出さないと薫は桐谷とは会わない。 大学では専攻が違うという事もあり、会うことが滅多に無かった。 「マスター、コーヒー一杯くれない?」 薫はカウンターの方に手を挙げて注文する。 その声に、桐谷ははっと顔をあげ、自分がしばらく考え事をしていたことに気づいた。 薫も桐谷も話すほうではないから、自然、沈黙が続いてしまう。 二人ともそれを嫌だと思っていないからいいけれど、こんな風に向き合っている最中でも、しょっちゅう白昼夢に襲われることがあるので気をつけなければいけないと、桐谷は実感した。 マスターは薫の声に軽く頷き、棚から豆を取り出し、コーヒーを造り始める。 香ばしい匂いがくゆって鼻に届く。 豆のからからと乾いた音が耳に届く。遠くでぼうっとそれを感じて、ふと薫の方を見ると怪訝な表情にぶつかった。 「なに?」 「なに?じゃない。特に何も話すこと無いならわざわざ呼び出すな」 さっきから、ぼうっとしている桐谷に対して焦れたのだろう。 彼にしては珍しく苛立ちをあらわに桐谷に突っかかった。 「冷てえこと言うなよ。ほら、来週はあれだ、俺の誕生日だし」 自分でも厳しい言い訳染みた事を言っているな、と思いながらも桐谷は返す。 案の定、薫の眉間の皺は一本多く刻まれてしまった。 どうやら、今日は機嫌がよくないらしい。 感情の起伏が無いように見えて、実は表に出さないだけで薫のほうが桐谷よりも波が激しい。 「そういう事なら、お金置いとくから。じゃあ」 そう言って薫は立ち上がった。 そのまま財布から一枚取り出すと、テーブル上に置いた。 コーヒー一杯分より明らかに多い金額は、おごるという意思表示なのだろう。 「いや、ちょっと待てって、薫。お前、まだコーヒーも飲まない内に帰るのかよ」 「欲しいならやる。誕生日プレゼントだ」 じゃあ、卒論も控えているから、と静止の言葉の隙も与えずに、薫は立ち去る。 帰り際にマスターに一言二言挨拶して、またドアベルを鳴らしてドアの向こうに消えてしまった。 「やっすい誕生日プレゼントだな〜」 残された桐谷は呆然とそれを見送った。 薫はあの日以来、どこか桐谷と距離を置くようになった。 偶然、学内で会った時に不自然に目を逸らす様だとか、こうして久々に会話するときに向こうから会話を切ることだとか。 遠慮しているのかもしれない。 桐谷を事件に巻き込んでしまったのだと後悔しているのかもしれなかった。 けれど、携帯電話を薫から手渡されるより以前に、桐谷は巻き込まれていた。 巻き込む巻き込まれるといった受容的なものではなく、むしろ積極的に飛び込んでいったようなものかもしれない。 だから、後悔する必要はないのだと、桐谷は思う。 それを敢えて言わないのは、薫のぎりぎりで保っているプライドを考えての事だった。 薫はあの日、いや、今でも心のどこかで救いを求めている。 手元にある携帯電話が何よりの証拠だ。 もし、薫が壊れそうになった時、支えてあげられるのは自分しかいないのだと、思い上がりでなく桐谷は感じていた。 「まあ、いいか。当初の目的は果たされたし」 携帯電話を、薫の出て行ったドアに重ねて眺める。光を抑えた照明のオレンジがシルバーのボディを照らす。 「それなりに、元気そうでよかったよ……」 薫がプレゼント代わりに置いていったコーヒーのカップに口をつける。ブラックコーヒーの苦い味を感じながら、桐谷は一人、嘆息した。 久々の更新で、小説自体久しぶりで、自分でも書き方を忘れてしまった部分ありますがいかがだったでしょうか。 今回は蛇足的な話になったかもしれませんが、小休止的なその後のお話ということで。 この後の話に関しては何となく決めてはいるのですが、書けるかどうかわからないですね。 mainページに戻る topに戻る |