まっくら闇のお話










しとしと、と傘の上を跳ねる音だけが聞こえていた。


住宅地に差し掛かると、辺りは暗く、気を抜けば帰り道を見失ってしまいそう。

雨雲に遮られて月の光も星の光も届かない。町の明かりは雨に濡れて揺らいで届く。

右掛けにした鞄は教科書が詰められていて肩が軋むほどに重い。左手には母に頼まれて買ってきたカレーの材料が入ったビニール袋。こちらも指がおかしくなりそうなほど重たい。

買い物をしたスーパーを出てからまだ数分ほどしか経ってなかった。
ずいぶんと長い時間、一人きりで歩いていたような感覚になったけれど。

真っ暗で、誰もいない。闇だけが広がるセカイ。
闇が、ぽっかりと口を開いて私を飲み込もうとしている。
いつも道を照らしてくれる電灯も切れかかったようにばちばちと点滅を繰り返していた。

肩に鞄の紐が食い込んで、ビニール袋を持った指がしびれていくのがわかった。
身体を鍛えている青年男子であるならともかく、私は残念ながら文科系の中学生女子だった。身体の限界を感じてしまう。
雨は降っているけれど荷物を降ろそうかな。鞄はダメだとしても、ビニール袋なら中身が濡れることはないかもしれない。

そう思っていたとき、視線の先に妙なものが映った。

電信柱の下。

丸い、黄色の物体が座り込んでいた。
よくよく見ると、黄色の丸はどうやら黄色の傘のようで、黄色の傘の中には小さな女の子がいた。

私はそら恐ろしいものを感じる。誰もいないと思っていたのに。

実際、女の子の姿を目にした今でも人の気配をまったく感じさせない。

どこかホラー映画の序章のような展開。

女の子はこちらに気づいていないようで、うずくまって地面ばかりを見ている。

暗闇のせいだろうか。傘の下からわずかに見える顔は、青ざめているように思えた。

顔以外は、例えば傘の柄を握る手なんかは驚くほど白く雪のようだ。

数分間は私はそこに立ち尽くしていた。どうしていいかわからなくなっていた。

このままここでじっとしていても始まらないのはわかってる。進行方向に女の子はいるのだから。

話しかけるべきかやめるべきか。

こんな時間に小さな女の子がこの辺をうろついているのはいけないことだ。
話しかけて、住所を聞いて、家まで送ってあげるのが、一番いいに決まってる。

ツバを呑み込んで、ビニール袋をぎゅっと握る。

私は彼女に近づいていった。

「ねえ」

恐る恐る声を掛けると、女の子はくるりと首をまわしてこちらを向いた。

内心、振り返ったらお化けだったなんていう恐ろしい展開がよぎったけれど、こちらに視線を移す女の子の顔は拍子抜けするほど普通だった。
小さな子供特有の柔らかそうな頬に零れそうな大きな瞳が印象的な可愛らしい女の子だ。

ただ、目が充血したように赤い。泣いていたのかな。

「・・・・・・おねえちゃん、だれぇ?」

舌足らずに尋ねてくる声は、少し震えていた。泣いていたからなのか、寒いのか、怯えているのか、その全部なのかわからない。可哀そうで、思わず抱きしめてあげたくなる。

私は安心させるようににこりと笑う。

「おねえちゃんはね、この辺に住んでいるの。君は、どこの子かな?」

私が泣いていた時に、よくお母さんがするような口調で話かけた。

すると、少女の顔から少しずつ緊張が解けていくのが見て取れる。

そろそろと少女の小さな手が動く。

そのまま空を指差した。

「あそこ」

私は少女の指差した方向を見た。真っ暗な空だった。雨さえ降っていなければ、夜空に星が煌き、月の光も煌々と届いただろう。

天気が変わればこうも印象が変わるものなんだ。少女の指差す方向には「何にもない」という形容がぴったりなほど暗かった。

「あそこからね、落ちてきたの」

私が『この辺に住んでいるの』という言葉と同じ調子に言うものだから、思わず「ああ、そうなの」と頷きそうになった。

まさか、本当に空から落ちてきたなどという言葉を信じるわけにも行かない。
言葉の通じない赤ん坊を目の前にした気分で困惑してしまう。

「ええっと……帰り道、わかるかなあ?」

とりあえず、少女を家まで送り届けるために、無難に言葉をつないでみる。

顔をのぞきこむと、いっぱいに涙をためた瞳にぶつかる。

「あのねあのねっ、帰りたくても帰れないの。…おなか、すいてて動けな…っ」

最後の方は泣き声になってしまって、上手く聞き取りにくかった。

少女は小さく声を漏らしながら泣き続ける。

私は、というと、どうすることも出来ずにただ途方に暮れてしまった。

さっきからいまいち会話がかみ合っていない。
どうやらおなかがすいているらしいことは、わかったけれど、帰り道についてはまだわからない。
それさえわかれば抱きかかえてでも連れていってあげるのに。

再び、鞄の重さを感じてしまって、苛々している自分に気づく。

空腹らしいと聞いて、何となくビニール袋に目をやる。
地面におろされ、濡れている半透明のビニールからは牛肉、カレーのルー、たまねぎ、ピーマン、にんじんといった材料が透けて見える。

これじゃ、この子のおなかを満たすものはないかな。

私は諦めて少女に聞こえないようにため息をついた。

「……それ」

さっきまで泣いていた少女はぴたりと泣くのをやめてぽつりと言った。

その涙で潤んだ目は、私の視線の先、つまりはビニール袋を見つめていた。

「なあに? この中はいますぐ食べられるものなんてないよ」

私が言うと、聞こえなかったかのように、じいっと視線を外さない。

「その、赤いの・・・」

「……? にんじんのこと?」

にんじんを取り出して、少女の目の前に差し出した。

こく、こく、と音がなりそうなほど激しく首を縦に振って、物欲しそうに少女は私の手にあるものを見た。

「欲しいの?」

尋ねると、また首を振る。

まさか、これをそのまま食べたいなんて言うんじゃないよね。

生のにんじんなんて、食べられたものじゃない。
食べられないこともないとは思うけれど、もともとにんじん嫌いの私はこのまま手渡すことに抵抗を覚える。

それでも、差し出さないといけない気がして、恐る恐る少女の方ににんじんを近づけていった。

少女の鼻先まで近づいたところで、ぱっとにんじんが奪われる。

何をする気だろうと、疑問に思う暇も無く、にんじんは少女の口に運ばれた。

かじかじかじ。

生のにんじんがかじられる音。

少女は夢中で、一心不乱に食べ続けた。
あまりにおいしそうに食べるものだから、私も止めようとした手を引っ込めてしまった。

一瞬の出来事で、気づけば、一本丸ごと完食していて、びっくりする。

少女は私の方を見て笑った。
青白かった頬に生気が戻ったかのように赤みが差していて、瞳に涙ではない輝きが宿っている。

「おねえちゃん、ありがとう」

光が満ちるようなふわりとした満面の笑みが少女の顔に広がる。

辺りが優しい光に包まれていく。

一瞬だけ眩しい光が差して、目をつむる。

目を開くと、もう、少女の姿も大きな黄色い丸い傘もどこにもなかった。

ただ、地面ににんじんのへたが落ちているだけだった。

一体、今のは何だったんだろう。

茫然自失の私はしばらくそこに立ち尽くしていた。







数分経って落ち着いてくると、肩にずしりとした重みを感じた。

早く家に帰らないといけない。

これ以上、暗くなると夕飯に間に合わない。今夜は大好きなカレーなのに。

少しずつ現実を取り戻していく思考を感じながら、私はいつのまにか落ちていた傘を拾い上げた。

気づけば、雨はすっかりやんでいた。
空はいつのまにか快晴で、黒い夜空のカーテンに宝石のような星が散らばっている。

その中心にはまるい月。



「そっか、今日は満月だったんだ……」



どこかで、少女の笑い声が、聞こえた気がした。



『ありがとう、おねえちゃん』



そんな風に月が優しく輝いた。







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