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labyrinth 〜 prologue



























かつて、夢を媒介に異世界に落ちていった少女の物語があった。



やけに時計を気にする白い兎に導かれ、好奇心にせまられて自ら口を開いた闇に飛びこむ少女。

闇の底の底はハートの女王の統治する異世界。

気が狂いそうにいかれた世界。

出会うすべての人、すべての事柄が気違いのように少女の目には映った。

かんしゃく持ちの公爵夫人。

いかれ帽子屋。

終わらない茶会。

終わらない物語。

夢が夢として覚めなければ、少女はどうしただろう。

夢の定義として、覚めるということは必然だからこの心配も杞憂に過ぎない。

だけど、夢はいつも終わらないままで覚めてしまう。

起きた後の夢の名残というものは、時に切なく頭にこびりついて離れない。





























その本には『迷宮(labyrinth)』と書かれていた。

それだけだった。


使われなくなって久しい、父の書斎の本棚の奥に押し込められていた古い本。

タイトル以外は、著者名も、発行所も何も書かれていない妙な本だった。

分厚くて、埃かぶったそれは、なぜか私の手の中にしっくりとおさまった。

まるで、もう何年も前から私が手に取るのを待っているかのようだった。



私は本を小脇に抱え、部屋を後にして、家の外に出た。

後ろから母の「気をつけていってらっしゃい」という声がかかる。

前日までずっと寝込んでいた母は、今日は起きてキッチンでジャムか何かを作っているようだった。

よかった、どうやら今日は気分がいいらしい。




外に出ると、涼しい風が頬のそばをよぎり、鳥が空の高いところで鳴いていた。

一面は草原の緑で覆いつくされ、草の匂いが風に乗って鼻に届いた。

用があるのは家からそう遠くないところにある大きな樹の下だった。

その巨大樹は私の背の5倍はあって、その下に腰掛けるとちょうど良く枝が日よけのかわりになってくれる。

そこで本を読むのが何よりの私の楽しみだ。


長い休暇を利用して来たこの別荘は、少し離れた場所に牧場があった。

そのためか辺りは草原地帯であり、遠くから牛の鳴き声も聞こえてくることがある。

とても穏やかな場所だ。



父が倒れて以来、ふさぎこんでいた母の休養のために来たのは正解だったかもしれない。






父は原因不明の病気だった。

ロングスリーパー、ナルコレプシー、医者の口から出たのはそのような病名だった。

要は、睡眠障害。

一生、続く病気かもしれない。

それでも、命に直接危害を加えるような病ではないから、と油断していた。



私の父は眠り始めてから一ヶ月経っても起きる気配がなかった。

母は倒れ、一週間寝込んだ。

疲弊していく彼女の耳にはそれ以上の医者の言葉など耳に入っていなかっただろう。

だけど、私は聞いてしまった。



「もう、二度と目覚めることはないかもしれない」

という看護師たちの軽はずみな噂話を。










強い風が一瞬そばをよぎる。

長い髪がなぶられて四方にはねる。

風の温度が、昨日とは違う気がした。もう、秋なのだろうか、と思った。



樹の近くまで寄ると、妹のアリスが樹に背を預けて寝ているのが見えた。

すう、すう、と小さな寝息を立てている。

いつもなら微笑ましいはずの光景に、言いようのない不安を感じた。

少し前まで父の事を考えていたからだろうか。

不安を打ち消すように私は本を開いた。

『迷宮』と書かれたかたい皮の表紙。



その本の最初の1ページを開く。


とたん、襲う、抗いがたい眠気。





何も、見えなくなった。


見ることを放棄したと言ってもいい。


羅列する文字も緑も妹の顔もなにもかも。











それが、最後の記憶だった。













続く